\ナンコツテッタイ/

二次エロ小説書きぽんぬのブログ。サークル 「軟骨撤退」or「投擲クロワッサン」で活動中。

『ぼく愛』について本気出して考えてみた

  • 噂の恋愛工学の本を読みました。
ぼくは愛を証明しようと思う。

ぼくは愛を証明しようと思う。

 

読んで以来ものすごく思い悩むことになって、もうここしばらく全人類去勢すればいいんじゃないだろうかとか考えていてつらかったので、一度考えをまとめておきたいと思います。

小説の筋書きについてはナチュラルにネタバレすることになるので、気にならない方のみ追記からどうぞ。まあ小説としてはそんなに大層な筋書きのある話ではなかったですけど。

 

アブストラクト(時間がない人はここだけ読んでね!)

恋愛工学とは、「一途な男が一番というのは嘘で、女は女に不自由しない男に引き寄せられる。一途であることにこだわってもモテの上で得はないので、ナンパなどでひたすら試行回数を稼ぐのがモテへの近道だ。回数を稼ぐためにはルーティーン化した会話を利用しろ。その他心理学的テクニックを活かして女に股を開かせろ。何度もやっていれば何度かは成功するし、セックスできればできるほどもっとモテるようになる」などと説くテクノロジー(?)で、割と色んなところでボロクソ言われている。

しかし考えてみれば「一途でも得しないから回数を稼いだほうがいい」という考えに対して反論するのは難しい。単純な確率問題として、一途でないほうがヤれる確率は上がるということを否定することはできないからだ。ルーティーン化も合理的であり、恋愛工学テクノロジーを利用することは確実にモテ(この場合はセックスの成功)を導くと言えるだろう。

でもそんなことをするのは倫理的に正しいのだろうか? 「人格を手段として利用するな(怒)」「女はオナホじゃないんだぞ(怒)」とカント先生に怒られないだろうか? と考えてみたのだが、実は「ルーティーンとはいえ嘘をつかない」「セックスすることではなく相手を喜ばせることを目的にしろ」などといった形で、著者はうまいことカント先生に怒られにくい論の立て方をしている。

どっちかというと本書の問題は、聖帝十字撃だののふざけたネーミングを使ったり、どう考えてもアホな女ばかりを小説中に登場させたり、進研ゼミの漫画みたいなサクセスストーリー(オチはそうとも言えないが)を描くことで、せっかく著者が緻密に築いた理論を全然理解しないやつを引きつけて、恋愛工学と性的トラブルとの間に動線を引いてしまっていることにあるのではないか?

人間力を上げないとテクノロジーに振り回されるばかりですね。がんばろう。

 

本論(12000字ぐらいあるから暇な時に読んでね!)

当初の印象「用語もフォロワーもなんかキモい」

本書を読む以前、恋愛工学なるものに対するイメージはろくなものではなかった。これは第一に出てきている断片的な用語が意味不明すぎたという理由が大きくて、まあ概ねこの記事の印象が強い。

ao8l22.hatenablog.com

ちなみに、恋愛工学に対する印象が全体的に変わった今でも、「聖帝十字撃」とかいう用語センスはちょっとヤバいと思っている。読者層が男ばっかりだからこそこの手の悪ふざけめいたセンスがウケると思った(そして実際ウケた)のかなあ……となんとなく推察するのだけれど、悪ふざけを楽しんで受け入れる層に膾炙させようとしたことがある種の大きな問題を招いている気がする(後述)。

ともあれ、この時点での印象は「女なんか馬鹿なんだからこのウルテクを使えばいくらでもセックスできるぜ」みたいな腐れミソジニーヤリチン宗教みたいなものが台頭してきたんかなって感じで、それはもうドン引きだったわけである。

それに、なんかツイッターとかでRTされてきている恋愛工学徒(?)の発言もそういうのばっかりに見えた。まあ考えてみれば、軽くイっちゃってる人の発言のほうが面白がってRTされやすい傾向にあるのだからある種当然なんだけど、頭から女性存在を馬鹿にしきっているようなのが多いわけで、そりゃあ反感も持つ。

メルマガでだけ広められていたらしいこの思想(と呼ぶべきなのかは分からないけど、まあ便宜的に)が、まとまった形で発表されたのが本書『ぼくは愛を証明しようと思う。』なわけだが、

cakes.mu

一応ここで最初のほうは読めるんで読んでみたら、

「この東京の街は、僕たちのでっかいソープランドみたいなもんですね」

 

「ああ、無料のな」

とか言うとる。ドン引きにドン引きを重ねてドン引きって感じ。

もうとにかく全体的にキモくて、ああ女に対する憎悪を拗らせるとこういうことになってしまうのか、ホモソーシャルの暗黒、深淵、悲劇にして喜劇、私はそっとブラウザを閉じた、みたいになったのだけれども。

 

考えてみれば、知らないものを批判するのは不誠実だ。というわけで、読んでみることにした。

もう少し直接的なきっかけとしては、鶉まどかさんとの会話の中で「恋愛工学についてどう思うか?」みたいな話題になったからである。ぽんぬさんがどう思うか聞いてみたいです、とか言われちゃったりなんかして、オッそれじゃパパ読んで痛烈に批判しちゃうぞ~、とかなんとか思ったというのが本当のところだが。

 

とにかく、読んだ。

そこからが地獄だった。

 

本書の要点を整理しておこう

本書において(メルマガは読んでないので知らんけれど、書籍として発行したということはここに述べられている内容が恋愛工学の要点ではあるのだろう、多分)示されている著者・藤沢数希のセックス観を私なりにまとめると以下のようになる。

  1. 女たちやメディアや文芸は「一途な男こそあるべき姿で、そういう男に女は心惹かれる」と説くがそれは嘘っぱちで、一途な男は「私を逃せば他に相手がいないのだろう」と思われて軽んじられるだけだ。尽くす行為は自分の価値を下げること(非モテコミット)に他ならない。
  2. 生物学的に考えれば、雌は優秀な雄の遺伝子を欲している。そしてその優秀さは単純なスペックだけでなく、「どれだけたくさんの雌と交尾できているか」によっても測られている。つまり、モテる雄はよりモテるようになる。もっと言えば、逆説的になるが、セックスしたければセックスに不自由しないようになることが一番なのだ。
  3. モテ=ヒットレシオ×試行回数、という式に表されるように、とにかく試行回数をこなすことでセックスに持ち込める確率は上昇する。数をこなすためには、相手の心を掴むように心理学的に計算されたトーク内容をルーティーン化するのが効率的である。続けていればヒットレシオも向上してくる。
  4. ただ、この方法論は、女を単に性欲処理の道具として使うためのものではない。むしろ恋愛工学実践者の目的は女を喜ばせ、自ら「抱かれたい」と思わせることである。

ふーん、なるほどね。

 

「一途」信仰のクラッシュは(モテにおいては)おそらく正しい

前項の1と2はほぼ繋がった内容だ。要するに、「僕には君だけだ」という男より、「他にも女はいるけど、でも君に興味を持っちゃった」という男のほうがモテるってんである。

「いやそんなことはない、やはり女が本当に求めているのは一途で誠実な男だ」とか言うのは簡単だ。簡単だがこの主張にはなんの意味もないように思われる。

まず「女が本当に求めている男」なんてものを証明するのは不可能だ。女性誌やら何やらのアンケートを全面的に真に受けるというなら好きにすれば宜しいが、「本当に」という言葉がそう容易く証明されるなら誰も苦労はしていないという話である。

そして、仮に女が誠実な男を「本当に求めている」として、そもそもそれは「モテたい(本書においては即ち、求められてセックスをしたい)」男性にとって意味のある情報にはならない、という事実があるのではないか。

一途にやればどんな人でも常に(100%とは言わずとも90%以上の確率で)振り向いてもらえるなら、あの娘に一途でもいいだろう。しかしいくらなんでもそれを強弁することは難しいというのは、誰しも認めざるを得ないのではないか。お互いの相性もあるだろうし、運も風向きもあるだろう。一途でさえあればオールオッケーなら、ストーカーなんて問題は起こらない。

3の内容にも関係してくるが、一途に一人だけに全精力を傾けても必ず上手くいくとは限らないのなら、多数を相手に試行回数を重ねることでレスポンスをもらえる可能性を上げるという選択肢を取るのが合理的だ。

女「一途な男が一番だ」男「じゃああなたは一途な男になら必ず振り向いてくれるのか」女「必ずとは言えない、相手による」男「だったら一途であることにこだわらずたくさんの女を狙って行ったほうがいいじゃないか」――というわけである。

 

「私はそうではない」という反論は有効ではない

もちろん、それに対して女は「一途でない男なんて、結局女にはその空虚さを見破られてしまう。上手くいくはずない」と返事してもいいのだけれど、まあ、それこそ空虚な反論だろう。

このあたりに関しては、かなり慎重に誤解を避ける必要があると思うのだけれど……「一途でない男が、自分とセックスをするためだけに寄ってきていることを見破れる女」は一定数、というかいっぱいいると思う。本書の主人公のわたなべくんだって、たくさんの女にLINEを無視されたりとか「彼氏いるから」とお断りされたりとかしているのだし。

「私はそんな男を相手にしない」ということと、「女には相手にされない」ということをごっちゃにすると話が拗れる。まあ、そもそも本書並びに恋愛工学自体が「女はこういうものだ」という語り口だから、そっちにも問題があると思うのだが、あくまで傾向の話をしているのだ、という視点が必要だと思う。

恋愛工学を実践する男としての返答はおそらく「あなたがそういう男を相手にしないなら、あなたはターゲットではない」というものになるだろう。恋愛工学なんてもんに興味を持ってわざわざ調べて批判しているような論客たちが簡単に騙されてくれないことなんか別に不思議でもない。

正直なところ、この本に出てくる女たちは基本的にそれほど頭が良くない。イルカが魚ではないと知らず、しかもそれを「当然だ」と見なされていたりするのだ。しかしこれに対して、「女はそんなにアホじゃない、馬鹿にするな!」と噛み付くのは無意味である。別に著者は女がみんなイルカが哺乳類だと知らないと思っているわけではないだろうし、たとえそう思っていたとしても、それはこの本の理論を阻害するものではない。「そういう女もいる」ということが重要であって、そして少なくとも彼女らに対してこの方法論が有効に働いている、というだけの話だ。「こういう女(或いは男)がいる」という言及と、「女(或いは男)はこういうものだ」という言及を混同すると話がややこしくなる。

試行回数を稼ぐ、という方法論からも見て取れるように、これは百発百中のハウツーではない。ターゲットにならない女は確実にいる、はずだ。しかしそのことは、恋愛工学が無価値であることを(少なくとも直接的には)意味しないのだ。

(……ただ、ちょっと界隈の論争を見ていると、この「あなたはターゲットではない」ということについて「おめーなんかハナから相手にしてねんだよブス」という言い方で表現している様子が見受けられて、こうした一部の態度がますます議論の混迷を深めているのでは……という感じがあるんだよなあ。)

 

ルーティーン化はどう考えても合理的

さて、この「一途にやってもモテない」という仮説に従い、出来る限り多くの相手に、極力コストをかけずにアプローチするために紹介されているのが、かの悪名高い恋愛工学的ルーティーンである。女に声をかけ、会話の糸口を掴み、盛り上げ、気を引き、キスやセックスに持ち込む一連の流れの中で用いられる、一定の会話の台本である。要するに鉄板のネタ振りみたいなもんだ。

このルーティーンの内容には心理学が生かされているようだ。また、ルーティーン外の会話でも、心理学的テクニックの応用が勧められている。臨床心理にはさほど明るくないのでどの程度の信憑性があるのかは分からないのだけれど、とは言えラポールやイエスセットやフットインザドアぐらいの用語は聞いたことがあるし、他ももう少し見識のある人にとっては見慣れたものなのかもしれない。

会話内容をルーティーン化することのメリットは見ている限り複数あって、まず単純に、会話を盛り上げるためにあれこれ新しい話題をひねり出そうとしなくていいから楽である。そして、楽だからこそこなれた感じが出て、「女慣れした、モテる男」に見せる効果がある。もちろん、ネタが割れると残念なことになるというデメリットもあるのだけれど、ルーティーンの引き出しを段階的に増やしておけばその手の問題も起こりづらくなるだろう。

この「ルーティーン的会話手法で女の心を掴む」というのも、恋愛工学が強烈な反感を呼び起こしている理由らしい。「台本通りの甘い言葉で女をたらしこむなんて、なんて軽薄なんだ」みたいな。しかしこれはやっぱり意味のない批判だろう。「台本通り」で「軽薄」だと看破されない限りこの台詞は有効で、看破される可能性があるからこそ回数をこなすために徹底的にルーティーン化しているのであり、そして有効な相手がいる限りこれを使わない理由はないのだから。

……これを使わない理由はない、とは言ったけれど、しかし倫理的な理由はもちろんあり得る。それについては後に詳しく検討する。

 

大筋において方法論が正しいことを認めるべきでは?

ここまでまとめて、改めて思う。

いやこれ、多分上手くいくと思うよ。

 

正確を期すならば、「著者が意図したとおりに恋愛工学が実践されたのであれば、価値判断的な善し悪しはともかくとしても、ある程度期待どおりの確率で女とセックスするという結果は得られると思うよ」って感じ。

お気付きの通り色んな条件節と譲歩節がくっついている。くっついているが、ここに関しては認めざるを得ないだろうと、少なくとも私は考えている。

正直私も、しかるべき方法で実践されたとしたら、(ここまで読んでネタが割れているからどうだかはわからないけれど)絶対引っかからないという自信はない。まあ、私は実際に著者やら恋愛工学実践者やらにナンパされたことがあるわけじゃないし、私の身の回りにもナンパされた人がいるわけじゃないので、ここについては本当に想像で語るしかない。ただ、読んでいる限り、理屈の上の瑕疵は見当たらなかったと思う。最も効率的に女と親密な関係になる方法を、それこそ工学的に説いているように見える。

だから私にとって、「こんなもんで女が引っかかるわけないだろう」という、恋愛工学の有効性そのものを貶めることで批判しようとする主張は、正直全く説得力を持たない。問題の矮小化に過ぎない。

また、「こんなものは真実の愛情ではない」という批判も、何度も言っているように意味がない。「真実の愛情ではないとして、だから何か問題あるの? 真実の愛情が欲しいなんて誰も言ってない、ただモテたいし、セックスがしたいんだ」という回答が返ってくるだけだ。「だいたい、言われたとおりに真実の愛情とやらを追い求めたところで、あなたたち女は、ちっともこっちを振り向いてくれなかったじゃないか」。

  

善悪を考える前に、二次的だが重大な悪徳について

ここまで、特に批判は加えることなく、恋愛工学の方法論について概観してきた。

というわけで、そろそろ「舌先三寸のテクニックで面白いように女の股を開かせること」が倫理的に正しいのかどうか、という話をしたいのだけれど……その前に、私がこの本を読んでいて最も即物的で火急の問題であると感じたことについて書いておきたい。

この本の著者である藤沢数希は、すごく賢い人なのだと思う。文章は整っていて論理的だし、それを裏付けるように経歴は華々しい。この人が恋愛工学的テクニックを駆使してモテまくっているのも事実なのだろう。少なくとも私はそう感じた。

問題は、世の中には彼のように賢くない人もいるということである。「読む前の印象」の項で言った、「悪ふざけを楽しんで受け入れる層に膾炙させようとしたことによる大きな問題」の話だ。この数々のルーティーンを、道具の一つではなく「これさえ使えば女の子が即落ちる魔法の言葉」と信じ込んで、下手くそな格ゲープレイヤーよろしくぶっぱする人たちが絶対にいる、ということである。

読んでいると分かるが、恋愛工学的テクニックによってセックスを成功させるには、それなりの(所謂)スペックとコミュニケーションの地力が要求される。しかも物凄い試行回数が必要で、その回数の多くはストナン(ストリートナンパ)で稼がれる。上手く女との一対一の会話に持ち込めても、デートを取り付けて、部屋やホテルに連れ込んでセックスに持ち込める割合は、慣れるまではずっと低い(ヒットレシオが低い)。

これらのことをちゃんと理解していない男が恋愛工学を使おうとするとどうなるか。セックスに持ち込もうとした相手の女が芳しくない反応を返されたとする(その可能性は高い、だってヒットレシオがまだ低いから)。「恋愛工学のルーティーンに沿っているのに、上手くいかない」→「やっぱり恋愛工学なんかアテにならねえ」となってくれれば(それはそれでアホだと思うけど)まだいいが、「上手くいかないはずがないから、この子は本当はOKしているんだ! もう少しルーティーンを使って押せばいけるはず!」と思い込んだとしたら。

言うまでもないが、全然セックスなんかする気がないにも関わらず執拗にそれを迫られるのは、女にとって(というか、多分男にとっても)物凄い恐怖である。

恋愛工学のもっともらしさや著者のある種のカリスマ性は、品のないジョークセンスに基づくネーミングや本書の明快すぎるストーリーというインタフェースを通すことで、恋愛工学のメカニズムやバックボーンを詳細に吟味する能力に欠ける人々をそうした行為に駆り立てているのではないか、というのが私の懸念である。著者の観測範囲には、そうした「能力に欠ける人」がいないのだろうか? 生兵法のまま使われた恋愛工学がレイプ未遂を引き起こすことを著者が望んでいるとは思えないのだけれど、その可能性は全く考えなかったのだろうか?

もちろん、本書やメルマガを読んで恋愛工学を実践している人が重大な性的トラブルを引き起こしたからと言って、著者に法的な責任を負わせることはできない。しかしそこについて、何らかのフォローアップはあって然るべきだと思う。或いは、メルマガではそうした啓蒙もきちんと行われているのだろうか、だとしたら幾分状況はマシだけれど……。

 

今度こそ、倫理的問題について~女性を道具にする?

さてさてさてさて、いい加減倫理的問題の話をしないといけない。いや、別にいけなくはないけど。したい。

恋愛工学の、女性から求めさせてセックスをするためのハウツーとしての働きを問題視する論拠はなんだろうか。しばしば「女性を性欲処理の道具と考えている」という言い回しが用いられ、この表現は非常にパワフルであるがゆえに女性の賛同を得やすい(ように思われる)が、だからこそ慎重な取り扱いが必要だろう。「女性を性欲処理の道具と考えている」とは、どのような状態だろうか?

ここで問題とすべきは恐らく「性欲処理」よりむしろ「道具」というキーワードだろう。「女性の人格を無視している」というフレーズと平行して用いられることが多いことからも分かるように、女性を全人格的な存在であると認めず、自分の性欲を満たすために利用していること――カント的な言い方をするのであれば「人格を手段として扱う」ことを問題視しているのではないかと考えられる。

ここで、論点は二段階に分割できるだろう。

  • 恋愛工学を駆使して女性とセックスすることは、女性の人格を無視し、手段・道具として利用する行為であるか。
  • 人間を手段・道具として利用することは倫理的に誤っているか。

このうち後者の問題を厳密に論じることは、私の手にはちょっと余る。そのため、カント倫理学(義務論)及び完全義務について極めて簡単に解説することでその代わりとしたい。あくまで簡単な解説なので、多少の語弊があることについてはご容赦ください。

 

カント倫理学(義務論)について、ざっくりと

義務論は功利主義としばしば対置される道徳論で、功利主義が行為の結果・帰結を基準に正しい行為を決定するのに対し、義務論は行為の意図や行為の内容そのものを重視する、と説明できる。*1

例えば、

  1. 人を殺そうとして崖から突き落とす
  2. うっかり突き落としてしまう
  3. 崖から落ちそうになっている人を見殺しにする
  4. 崖から落ちそうになっている人に気づかず通り過ぎる

の4つの行為は、帰結を重視するのであればすべて同じものとして扱われるが、義務論のように意図や行為の内容(実際に手を下したのかそうでないのかも含めて)を重視する場合は区別することができ、一般的な感覚に合致している。

善い意志に従い善い行為をしようと考えることのできる理性のある人間を、カントは「人格」と呼ぶ。そして、人格にとって最も根源的なルールは人格を大切にすることであると考える。

人格には尊厳があり、この尊厳に敬意を払うことこそが義務である。だから、人格を、尊厳のない単なる「もの」のように扱うことは義務に反することになる。このことを「人格を単なる手段として扱う」と表現し、「本人が認めていない目的のためにその人格を利用する」というようなことを意味する。この逆が、「人格を目的自体として扱う」である。

義務論の問題点としては、

  • 複数の義務が対立するような状態のときどうすればいいか分からない
  • 科学の発達により、脳死状態など、義務がどのように適応されるか定められていない状態が実現するようになっている
  • 既成の義務には理不尽なものもある

といったものが挙げられる。

このようにカント的義務論は、一面において妥当性はあるものの完璧な道徳論ではないので、功利主義と相互補完的に組み合わせることで、新たな理論が創りだされたりもしている。

 

恋愛工学は「人格を手段として扱っている」のか?
~批判を巧みに回避する2つの原則

だんだん論文みたいになってきたけどもうちょっとなのでせっかくここまで読んだ人はお付き合いください。

さて、恋愛工学が批判に晒されるとき、多くの場合問題視されるのは、恋愛工学が用いられたときに予想される帰結ではなく、「ルーティーンを活用する」という行為の内容そのものや、「女の股を開かせようとする」という意志についてだと思う。(もちろん、恋愛工学が浸透した場合に起こり得る問題、もしくは逆にもたらされ得るメリットについて考察している人もいるが、多数派ではないようだ。)

そのため、恋愛工学に加えられる批判の多くは、義務論的な倫理観に基づいたもの、即ち「人格を単なる手段として扱う」ことへのものであると考えることができるだろう。

 

恋愛工学の提唱する「恋愛」のプロセスを単純化すると、「ルーティーン化した会話法によってナンパを繰り返すことで試行回数を稼ぎ、複数人の『いい女』の求めを得てセックスをする」ことに集約される。これは、義務論にもとづいて批判されるべき行為、即ち「人格を単なる手段として扱う」=「本人の認めていない目的のためにその人格を利用する」行為だろうか?

実は、著者は非常に慎重な態度でこの批判を回避しているのである。主に以下の2つの原則によるものだ。

  • ナンパの声掛けのルーティーン(オープナー)においても、相手の善意を利用するような嘘をついてはならない(道に迷ってもいないのに道を聞くなど)。
  • 恋愛工学の目的は女を性欲処理のために利用することではなく、女を喜ばせ、自ら求めさせることである。

 

嘘をつかない、というのは義務論における代表的な義務の一つだ。嘘をつかれた人間はついた人間の目的を誤認させられるため、自分の納得しない目的のために利用される可能性があるからだ。このことと、恋愛工学が「道に迷ってもいないのに道聞きオープナーを使う」などの嘘を禁じている理由は似ている。道を聞かれた女に、「道に迷って困っている人を助けてあげよう」という誤認させられた目的を抱かせ、「知り合ってセックスする仲になる」という真の目的に納得しないまま関係を築かせようとするからだ。

……とはいえ女の気を引くために女に不自由していないかのように振る舞ったり、時には相手をディスることで相対的に自分の価値を引き上げたりといった言動は、積極的な嘘ではなくともグレーゾーンに属するように思えるから、全面的に問題がないとは言いがたい。しかし少なくとも「なんでもあり」ではない。

 

また、まとめの4に示したように、恋愛工学の目的は女を性欲処理のために利用することではない、と本書内では説明されている。主人公のわたなべくんは一時このことを見失い、性欲処理のことばかり考えて恋愛工学を濫用したために酷いスランプに陥るのだが、師である永沢さんに諭されて立ち直るのである。

これもまた、恋愛工学が「人格を単なる手段として扱う」ものではないと示す試みであると考えられるのではないか。男の持つ「セックスしたい、性欲処理がしたい」という欲求のためではなく、お互いの目的を果たす行為にしたいということなのではないだろうか?

 

正しい理論であるとしても、正しく伝わって正しく使われるとは限らない

(どの程度意図しているにせよ)倫理的批判をかいくぐる著者の理論は実に巧みだと言わざるを得ない。本当に上記の原則に従っているのであれば、「女が道具として利用されている」という批判は大幅に無力化される。

しかしこれはあくまで、本当に従っているのであれば、だ。

恋愛工学の理論そのものに瑕疵があるということではないかもしれない。「二次的な問題」の項で示したのと同じように、恋愛工学がそのセンスや文体、或いは広告戦略からターゲットとしている層には、この理論を理解せず、「なんでもあり」で運用してしまうような男が少なからず含まれているだろう、という話である。

また、「性欲処理のために女を利用するのではなく女に自ら求めさせろ」と教える際、登場人物の永沢さんは「男がセックスしたいのなんか当たり前だ、そんなつまらないものが恋愛工学の目的じゃない。本当の目的は女を喜ばせること」といったようなことを説くのだが、最初から「女を喜ばせよう」と考えている人間は、そもそもあんまりこんな本読まないんじゃないかと思うのである。

 

ところで私の師匠的な存在であるぶっぱ先生(教師でエロSS作家で催眠術師というよく分からない人である)は、この永沢さんのレクチャーについて、「喜ばせたい、という言葉に嘘はないだろうけれど、これって要するに肉体的な性欲ではなくて支配欲を満たすことが目的だってことを言ってるだだけなんじゃないの?」という解釈を提示している。これはこれで説得的な解釈である。

「この藤沢って人のフェチズムが、セックスそのものより女に自ら身体を開かせることを快感とするものなんでしょ。セックスより女を思い通りに動かすほうが気持ちいいってフェチと、女のほうから身体を開かせたほうが落としやすいって方法論が組み合わさって、『ヤりたがってるようじゃヤれない』って教えになってるんじゃないの?」。

続けて曰く、「でも普通こんな本を読む男は肉欲にもとづいてセックスしたがってるんだろうし、『ヤりたがるのをやめないとヤれない』なんて言っても『ヤりたくなくなったらこんな本アテにしねーよ』って話だよねー」。尤もである。

 

著者が「喜ばせるのを目的としろ」とするのが、倫理的正当性を守る意図があってなのか、或いは嗜好的な問題が関係しているのかは分からない。しかしいずれにせよ、この方針はこの本のターゲット層を大いにブレさせているのではないだろうか。

「セックス不足の男」と煽っておきながら、「セックスを目的にしてるようじゃセックスできない・値しない」と突きつけるのでは本末転倒だし、かと言ってこうした指示を無視しセックスのみを目的として恋愛工学テクノロジーを利用する男は倫理的批判を免れ得ない。あちらを立てればこちらが立たず、というわけである。

 

結論:便利な道具は凶悪な武器になる

『ぼくは愛を証明しようと思う。』の中で完結している限りにおいて、著者・藤沢数希の主張は非常に精度が高いものであると私には思えた。

しかしながら、小説としての登場人物の描き方や、各所に見られる挑発的な語り口、茶化すようなネーミングセンスといった要素が、本書に書かれているのとは違う仕方でテクニックだけを利用する者、或いはテクノロジーすら不十分にしか利用できず重大なトラブルを起こす者といった危険因子を生み出し得ることも否定しがたい。それを予防するためのターゲット層の絞りこみも不十分であるように思えた。

まあ、私の本書についての解釈が完璧だとも言えないかもしれないし、著者が見たら「何言ってんだこいつ?」ってなるのかもしれない(だとしたらこの12000字の論文みたいな記事はなんだったんだつー話になるけど……)。或いは、「それぐらいわかってるけどそこまで面倒見切れないよ」と思うかもしれない。それも止むを得ないのかも。

なんにしても、恋愛工学批判者は恋愛工学の理論そのものを否定するよりも、実践している人間がどのような意図を持っているのかについて慎重に見極めるほうがいいんじゃないかと思った。義務論の話ばっかりしておいて最後が徳倫理学みたいな話になっちゃうのもなんなんだけど、やっぱり使う人間の性質によってこの手のテクノロジーは善にも悪にもなると思うんだよなあ。

 

 

月並みな結論になってしまったけれど、以上。

ここまで全部読んだ人いるんだろうか? お疲れ様でした。よかったら感想とかツッコミとかください。

*1:この説明方法は『動物からの倫理学入門』に倣っている。

動物からの倫理学入門

動物からの倫理学入門